インタビュー
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覚醒への助走 浅田梨奈

第3回|苦闘の3年間を乗り越えて新たな境地に

まだタイトルこそ手にしていない(10月10日現在)ものの、デビュー5年目での進化が目覚ましい浅田梨奈プロ。

ボウリングジャーナル・7月号の表紙に登場いただくとともに、表紙の顔として、インタビューのさわりを掲載したが、ここではフルバージョンをお届けする。

 

──プロ入りして3年間ぐらいは結果が出ませんでした。

浅田 オイルの削れ方も、アマチュア時代とはまったく違うように思えて、それに対応していくには、今の私のボウリングではだめだと思ったんです。でもどこをどう直していいのかわからなくて、むずむずしている3年間でした。ボールの回転軸を変えるのに、メカテクをつけたままやっていても大きな違いが出ないので、一回素手にしたこともありましたが、思うように点数が出なくて、翌年のことも考えると順位も気にしないといけないので、そのときは1年足らずでまたメカテクターに戻しました。

 

──去年は全試合予選を突破して、ランキングも7位へ躍進しました。なにが変わったのでしょうか。

浅田 7位というのは自分でもびっくりです。でも優勝争いをしてそこに行けたのではなくて、トータル的に予選落ちがなくて、コツコツとポイントを積み上げての結果でした。大きかったのは、その1年前からパーソナルトレーナーの方についていただいて、体幹トレーニングや体の使い方などを教わってきたことですね。最初の1年間は、それまでと動きが変わるのでなかなか結果には結びつかなかったけど、少しずつボウリングに結びつけられるようになってきました。

 

──昨シーズンから、ハイスポーツとのボール契約になりましたが、それも影響はありましたか。

浅田 いちどフリーになって、その翌シーズンからハイスポーツさんにお世話になっています。それまでボールに関する知識もあまりなかったのですが、プロ向けのボールの講習会や、練習会に参加させてもらうようになった。とくにコーチングの資格を持つ先輩プロからボウリングを見てもらってアドバイスを頂いて、それを帰って練習でやってみるということを繰り返しているうちに、少しずつ感覚がよくなってきて、それも成績に結びついてきたと思います。また新しく知識が増えていくって楽しいじゃないですか、だから今、ボウリングがすごく楽しくなってきました。

 

──以前よりもスピードがアップして、ボールの威力が上がったように思います。

浅田 回転数やスピードを上げる目的で取り組んでいたわけではないんです。“こういう風に投げてみたら、こういうボウリングができるようになるよ”というようなアドバイスをいただいて練習をしているうちに、それが少しずつできるようになるなかで、回転数やスピードも自然に上がってきた感じです。体幹トレーニングなどに取り組んでいたことも、新しい取り組みとうまく結びついた面もあると思います。

 

──今年はさらに飛躍の年となっています。KUWATA CUPを振り返ってはいかがですか。

浅田 予選から準決勝まで、ビッグもないけどローもない感じでずっときていて、最後のゲームに260が出てポンと3位まで上がった感じでした。ヒカリエであった決勝では、あとから振り返れば緊張はあったと思いますが、それよりも集中していました。細かいミスはあったけど、だからそのときの後悔はあまりないです。

 

──グリコセブンティーンアイス杯も3位でした。

浅田 去年の六甲クイーンズもそうですし、KUWATA CUPも、グリコも全部競って負けているんです。10フレ勝負でもう1発持ってくればというところで、必ず持ってこれていない。そこが私のまだまだ甘いところだと思います。これだけ続くということは、原因はメンタルですね。そこを持ってこれるかどうかが、大きな差なんだろうと思います。

 

──すでに同期が何人もタイトルホルダーになっています。同期の存在は、浅田さんにとってどういうものですか。

浅田 すごく大きいです。同期が頑張っているから、私もそこにいきたい、同じステージに立ちたいという気持ちが、より大きくなっています。もちろん先を越された悔しさは、めちゃくちゃありますよ(笑)。でもチャンスが巡ってきたときに、しっかり打つ力があったから優勝しているし、私はそこにいけていないので、差があることは認めないといけない。

 

──アマチュア時代にもいわれていたブロンズメダルコレクターの払拭をしたいですね。

浅田 先輩プロには“たくさん勝っている人でも、優勝の数よりも2位とか3位の数の方が多いよ、だからきちんとやることをやり続けていれば、きっと成績がついてくるときがくるから…”といってくださる方もいます。そのためには、常にチャンスが見えるところにいられるようにしないと、それをつかむこともできないと思います。

(了)

第2回|人生を変えた全日本高校選手権の優勝

まだタイトルこそ手にしていない(10月10日現在)ものの、デビュー5年目での進化が目覚ましい浅田梨奈プロ。

ボウリングジャーナル・7月号の表紙に登場いただくとともに、表紙の顔として、インタビューのさわりを掲載したが、ここではフルバージョンをお届けする。

 

──高校に入ってその年の全日本高校選手権でいきなり3位、さらに翌年は優勝しています。

浅田 すごいですね(笑)、自分でもびっくりです。1年生のときに、国体のポスターのモデルに起用されて、それをきっかけに、ナショナルチームの人たちに教えてもらったりする機会が増えました。

 

──それで自分でもナショナルチームの選考会に挑戦しようと…。

浅田 高校2年の春に選考会があって、当時のナショナルチームは、ユースのカテゴリーはなくて、高校生で入るのは狭き門でしたが、たくさん吸収できるものがあるから、と勧められて受けました。スポーツコンディションで投げるのも初めてでしたし、まったく打てなくて落ちましたが、その後もナショナルチームの下地賀寿守コーチからもアドバイスをいただきながら、こういうことも覚えなければいけないんだと思いながら練習をしていました。

 

──それが高校選手権の優勝につながったのですね。

浅田 優勝はまぐれです(笑)。私のなかでは奇跡に近かった。国体のポスターに起用されたということで、そのときはテレビの取材がきていたんです。カメラを向けられながら投げるなんて初めてですし、どうしよう、どうしようという感じで、頭が真っ白の状態でした。その緊張感がよかったのかどうか…(笑)その状況で優勝できたというのは、人生のなかでも最高の運を使ったと思います。なにより、協会の人たちも喜んでいただいて、それがよかったなと思いました。

 

──その優勝がナショナルチーム入りの後押しになったのですか。

浅田 ちょうどそのころにナショナルチームをやめた人がいて、欠員が出たんです。あとから聞いた話ですが、選考会を受けた人のなかから選ぶということで、どこかの大会で優勝した人を入れるという話になっていたようです。だから優勝が決まって表彰式の前に、ナショナルチームの先輩の方におめでとうと言われて、え、どういうことですかと聞いたら、この優勝でナショナルチーム入りが決まったよっていわれたんです。だからいろんな運が重なった優勝でしたね。

 

──その後の記録を見ていると、3位という成績が多いですね。そこで運を使いすぎたのですか?

浅田 そうですね。大学3年時の個人選手権もパーフェクトと800シリーズを出しながら、結局3位でしたし、国体も含め、とにかく3位が多くて、同世代の子たちから“ブロンズメダルコレクター”ってすごくいわれていました(苦笑)。

 

──大学卒業後は長崎国体の強化選手として、長崎に移り住むことになるのですね。

浅田 2年後の長崎国体を目指して、またナショナルチームでもその2年間の間にある世界選手権やアジア競技大会という大目標に向けて、さあがんばるぞっていう気持ちでした。ところがその矢先の4月のナショナルチームの選考会で落ちてしまったんです。内容が最悪で、結果は発表される前からわかっていましたが、悔しくてずっと泣いていました。

 

──大きな目標がなくなって、モチベーションも低下したのではないですか。

浅田 ぽっかり胸に穴が開いた感じでしたが、国体のために長崎に行ったわけですから、落ち込んでもいられない。とにかくそちらにシフトチェンジして、これまでも、今後もこんなにボウリング漬けになることはないだろうと思うくらい、ひたすら投げていました。国体は思うような結果ではありませんでしたが、最終目標が天皇杯、皇后杯の獲得というところだったので、総合優勝ができて、結果オーライでした。

 

──国体が終わったらプロテストを受けることは、早くから決めていたのですか。

浅田 ナショナルチームに残れなかったときは、国体が終わったらやめようと思っていました。でも当時プロ入りしたばかりの藤井(信人)プロが、コーチとして長崎に来ていたので、九州のプロアマ月例会とか、承認大会などに一緒についていって投げていたんです。それまでプロの人と投げる大会って、プリンスカップしか出たことがなかったのが、そういう機会がどんどん増えてきて、初めてプロという選択肢も考えるようになりました。

 

──プロテスト受験を決断したのはいつですか。

浅田 長崎国体が終わる直前ぐらいです。国体前の1年ぐらいは、本当に鬼のように投げていて、こんなに練習させてもらうことって今後もないだろうと思ったら、受けるなら今だと思ったんです。

 

──トップ合格を狙っていたのではないですか。

浅田 大会に出たかったので、そのための条件としてはトップ合格だと思ったので、狙っていました。でも全然ダメでした。一生懸命投げた結果なので、あれがあの時点の私の実力だったと思います。48ゲームをトータルして浮き沈みは少なかったと思うけど、ビッグゲームを重ねていくタイプではない。今にもつながっているけど、それが私よりも上に行った人と比べて、足りなかったところだと思います。

第1回|中学時代は部活のバレーボールとのかけもちで…

まだタイトルこそ手にしていない(10月10日現在)ものの、デビュー5年目での進化が目覚ましい浅田梨奈プロ。

ボウリングジャーナル・7月号の表紙に登場いただくとともに、表紙の顔として、インタビューのさわりを掲載したが、ここではフルバージョンをお届けする。

 

──ボウリングとの出合いはどういうものだったのですか。

浅田 両親が趣味でやっていて、いわゆるセンターボウラーでしたが、週末に投げに行くのに連れていかれて、待っている間同じ年頃の子たちがいたので、かくれんぼや鬼ごっこをしたりゲームで遊んだりと、ボウリング場が遊び場でした。

 

──小さいころはあまり投げていなかったのですか。

浅田 小学3年生か4年生のときに、地元の新聞社が主催して毎年行われている“親子ボウリング大会に出てみない?”と母親に言われて、じゃあ出てみようと、軽く練習して出たんですが、全然ダメでした。終わって表彰台に登っている子たちを見たら、全員がジュニアクラブに入っている子たちでした。ああジュニアクラブに通わないとうまくなれないんだと思ったのが、少し本気でやってみようと思ったきっかけでした。そこからジュニア教室に通うようになりました。

 

──ジュニアクラブに入って、すぐに上達したのですか。

浅田 ストライクを出せない、スペアが取れないとか、うまくいかなくて練習中ずっと泣いていて、母親にすごく怒られていた記憶があります。でもセンターの大会に出るようになって、大人の人たちがすごく応援してくれたこともあって、どんどんはまっていきました。

 

──中学でもボウリングを続けたのですか。

浅田 中学ではクラブ活動をやるつもりだったので、そこまで続けるとは思っていませんでした。6年生の終わり、3月にオール関東ジュニアっていう大会に「小学生時代の思い出だと思って出てみれば」と母親たちにいわれて初めて出たら、ビギナーズラックで3位になったんです。そして1位の子も2位の子も、小さいころから本格的にやっている子だった。同じ年ぐらいの子が、ボウリングを競技としてやっているんだ、そして単純にその子たちがカッコいいと思って、もっとちゃんとやりたいと思うようになりました。

 

──それで中学でも続けることに…

浅田 中学に入るときに、その当時ボウリングを教わっていた藤澤淳二プロに「ボウリングも続けたいけど、部活でバレーボールもやりたいんです」と相談したら、体力もつけられるし、あいさつなど部活だからこそいろいろ学べることもあるので、ぜひやりなさいといっていただきました。だから中学時代は、部活が夕方6時ぐらいに終わったら、すぐにボウリング場に連れていってもらって練習をするというように、両方を掛け持ちでやっていました。

 

──3年生時の全日本中学選手権で3位に入っていますね。

浅田 バレーボールの部活も県大会で負けて夏前には終わり、ボウリングに専念できるようになったのが、その成績に結びついたと思います。それでボウリングが一層楽しくなって、高校はやりたいこともあったけど、部活には入らず、ボウリングに専念することにしました。たまたまなのか、狙ってなのか…(笑)入った高校は、ボウリング場まで徒歩2分とかからないところにありました。

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