② 衝撃的だったウレタンボールの登場
70年代はラバーボールとポリエステルボールの時代でしたが、80年代に入って、カバーストックは革命的な転換点を迎えます。
レーン表面のコーティング剤は、従来ラッカー系のものが使われていましたが、引火点が低くて、アメリカでは実際に火災が発生したこともあって、1970年代の中ごろから、じょじょにウレタン系の塗料に転換しつつありました。
ウレタンの塗料というのは、ラッカーに比べると表面が非常に滑らかで、それだけ摩擦力は低くなります。そのレーンで、もともと摩擦力の低いラバーやポリエステルのボールを使用しても、当然曲がりません。メーカーの開発競争が激しさを増すなか、ウレタンの表面にウレタンを接触させると、非常に摩擦力が高まるということが発見されます。
そして米・AMF社が1981年に初のウレタンボール“アングル”を発表します。
それまでのボールとは一線を画すパフォーマンスで、一大旋風を巻き起こします。まだラッカー系のコーティング剤を使っているセンターも多く、そこでは曲がりすぎて逆に使えないほどでした。
しかし火災の心配だけでなく、レーンが傷みにくいこともあって、コーティング剤はラッカー系からウレタン系へと着実に置き換わっていきました。それに伴って、ボールもウレタンボール時代へ突入します。ポリエステルボールは、今もスペア用のボールとして、あるいはハウスボールとして存在していますが、ラバーボールは役目を終え、完全に市場から姿を消しました。
80年代に、ボウラーにとってもう一つ重大な転換がありました。30代くらいまでのボウラーは、そんな時代があったの? と思われるかもしれませんが、1983年までは、1ゲーム中にボールをチェンジすることは、ルール上できませんでした。だから1個のボールをどう操るかという、技術が要求された時代だったという言い方ができると思います。もちろんスペアボールという考え方もありませんでした。
ウレタンの時代になって、ボールはより摩擦力の高い方向に向かいましたが、摩擦力の高いボールは、オールラウンダーではありませんでした。オイルには強いのですが、オイルが取れてくると、曲がりすぎてボールの勢いが死んでしまう。それを投げ方でカバーするのには限界があり、摩擦力の低いボールも必要とされたのです。
そこで1983年にルールの改定がされ、複数ボールの使用が認められます。アメリカのメーカーの販売戦略もあったのではないかと想像しますが、同時に時代の流れのなかで、必然だったともいえると思います。
著者プロフィール
日坂義人(ひさかよしひと)
1949年生まれ。東京都出身。ドリラー・インストラクター歴47年。神奈川県のスポルト八景ボウルとハマボールに店舗を持つヒサカプロショップ代表。日本オリンピック委員会強化スタッフ・JPBA理事、JBC指導委員会認証部会公認ドリラー。JPBAインストラクター委員会メンバー。インターナショナルシルバーコーチ。