連載読み物
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ボールの進化によってボウリングはどう変化した?

③ 曲がりを競ったリアクティブの時代

1981年に“アングル”の登場で、カバーストック(表面素材)がウレタン時代を迎えてから約10年、ボールはまた新たな転換点を迎えます。

前号で、ウレタンボールの登場の裏には、レーン表面のコーティング剤が、それまでのラッカー系からウレタン系への移行があったというお話をしました。そして1990年代に入ると、合成レーンが登場してきます。

レーンはもともと木材(楓と松の木)で造られていました。当然ボールの落下や摩擦で傷むので、数年に一度は表面を削って平らにするリサーフェースという工事が欠かせません。しかし木の厚みには限りがあるので、それを繰り返すのにも当然限界がやってきます。

そこでいちばん手っ取り早い方法として考えられたのが、それまでの木のレーンの上に合成の板を張り付けるアンビレーンです。もちろん新設のセンターや、レーンをそっくり入れ替える場合も含めて、ウッドレーンから合成レーンへ急速に切り替わっていきます。

合成レーンはウッドレーンよりも表面がはるかに硬く、したがって摩擦力は低下します。そこにオイルを乗せるのですから、ウレタンよりもさらに摩擦力の高い素材が求められてきます。

これは私が小耳にはさんだ話なので、真偽のほどは分かりませんが、あるメーカーの開発者が、ウレタン素材に可塑剤を添加してみたら、オイルの上では摩擦力が低下するけど、オイルが抜けたドライゾーンにいくと、もともとの持っている摩擦力をそのまま発揮するような素材が発見されたということです。

それが今でいうリアクティブで、1990年に、その表面素材を使った初のボール“Xキャリバー”が発売されます。それを発表したのは、メジャーなメーカーではなく、小さなガレージメーカーでしたが、バックエンドでの強烈な曲がりを生むそのボールは爆発的にヒットし、日本でもたちまちのうちにXキャリバーだらけになったほどでした。

リアクティブは、オイルのあるところとないところでの反応の差が激しいという欠点もありましたが、そこに目をつむっても、曲がりの大きさによるストライクゾーンの広がりが重視されました。ボウラーはより大きな曲がりを求め、各メーカーも、開発にあたっては曲がりの大きさを競った時代でした。

一方で、その激しい曲がりのボールでは、⑩ピンのカバーなどは困難でした。1983年より、複数ボールの使用が認められるようになったことは、先月号でも触れましたが、この時代になって、1投目のボールとは別にカバーボールという考え方が生まれます。いちどは廃れかけたポリエステルボールが、カバーボールとして再び日の目を見ます。それとともに、2個入りのバッグが急速に普及しました。

著者プロフィール
日坂義人(ひさかよしひと)
1949年生まれ。東京都出身。ドリラー・インストラクター歴47年。神奈川県のスポルト八景ボウルとハマボールに店舗を持つヒサカプロショップ代表。日本オリンピック委員会強化スタッフ・JPBA理事、JBC指導委員会認証部会公認ドリラー。JPBAインストラクター委員会メンバー。インターナショナルシルバーコーチ。

② 衝撃的だったウレタンボールの登場

70年代はラバーボールとポリエステルボールの時代でしたが、80年代に入って、カバーストックは革命的な転換点を迎えます。

レーン表面のコーティング剤は、従来ラッカー系のものが使われていましたが、引火点が低くて、アメリカでは実際に火災が発生したこともあって、1970年代の中ごろから、じょじょにウレタン系の塗料に転換しつつありました。

ウレタンの塗料というのは、ラッカーに比べると表面が非常に滑らかで、それだけ摩擦力は低くなります。そのレーンで、もともと摩擦力の低いラバーやポリエステルのボールを使用しても、当然曲がりません。メーカーの開発競争が激しさを増すなか、ウレタンの表面にウレタンを接触させると、非常に摩擦力が高まるということが発見されます。

そして米・AMF社が1981年に初のウレタンボール“アングル”を発表します。

それまでのボールとは一線を画すパフォーマンスで、一大旋風を巻き起こします。まだラッカー系のコーティング剤を使っているセンターも多く、そこでは曲がりすぎて逆に使えないほどでした。

しかし火災の心配だけでなく、レーンが傷みにくいこともあって、コーティング剤はラッカー系からウレタン系へと着実に置き換わっていきました。それに伴って、ボールもウレタンボール時代へ突入します。ポリエステルボールは、今もスペア用のボールとして、あるいはハウスボールとして存在していますが、ラバーボールは役目を終え、完全に市場から姿を消しました。

80年代に、ボウラーにとってもう一つ重大な転換がありました。30代くらいまでのボウラーは、そんな時代があったの? と思われるかもしれませんが、1983年までは、1ゲーム中にボールをチェンジすることは、ルール上できませんでした。だから1個のボールをどう操るかという、技術が要求された時代だったという言い方ができると思います。もちろんスペアボールという考え方もありませんでした。

ウレタンの時代になって、ボールはより摩擦力の高い方向に向かいましたが、摩擦力の高いボールは、オールラウンダーではありませんでした。オイルには強いのですが、オイルが取れてくると、曲がりすぎてボールの勢いが死んでしまう。それを投げ方でカバーするのには限界があり、摩擦力の低いボールも必要とされたのです。

そこで1983年にルールの改定がされ、複数ボールの使用が認められます。アメリカのメーカーの販売戦略もあったのではないかと想像しますが、同時に時代の流れのなかで、必然だったともいえると思います。

著者プロフィール
日坂義人(ひさかよしひと)
1949年生まれ。東京都出身。ドリラー・インストラクター歴47年。神奈川県のスポルト八景ボウルとハマボールに店舗を持つヒサカプロショップ代表。日本オリンピック委員会強化スタッフ・JPBA理事、JBC指導委員会認証部会公認ドリラー。JPBAインストラクター委員会メンバー。インターナショナルシルバーコーチ。

➀ ラバーボールとポリエステルボールの時代

近代ボウリング史は、ボールの進化の歴史ともいえる。とくに近年は、ボールをいかに使い分けるかが、競技における大きな要素を占めているといっても過言ではない。ドリラー、またインストラクターという立場でその変遷をつぶさに見てきた日坂義人さんに、ボールの進化と、それがボウリングにどのような影響をもたらしてきたのかについて、連載をお願いした。

(この連載は、ボウリングジャーナル本紙の2014年9月号から2015年9月号まで連載したものを、この度、新たに加筆訂正して再録させていただきます)

私がドリルの仕事に携わるようになったのは、勤務していた農林業機械メーカーが、昭和47年(1972年)に神奈川県横須賀市に追浜ヘルスボウル(2000年閉鎖)をオープンさせ、そちらに出向になったのがきっかけでした。担当は企画のポジションでしたが「プロショップもやれ、それには穴をあける人間がいないので、半年ぐらい外で修行をして身につけてこい」という社命でした。

以来42年、ボウリングボールに携わり続けてきた私の経験をもとに、ボールの進化の歴史を中心に、お話を進めたいと思います。第1回は、ラバー(エボナイト)ボールとポリエステル(プラスチック)ボールの時代です。

ボールの進化という場合、多くはカバーストック(表面素材)の変遷の歴史でもあります。

東京・青山に、民間第1号の東京ボウリングセンターが誕生(1952年)して以降、ボウリングボールが輸入されるようになりますが、当時はほとんどがラバーボールでした。

1970年代に入り、ポリエステル(プラスチック)ボールが登場し、しばらくは、ラバーボールとポリエステルボールが共存する時代が続きます。ポリエステルの最大の利点は、カラーボールが作れるということでした。ラバーボールはほぼ黒1色でしたが、カラフルなボールがラインナップされるようになりました。

少し時代をさかのぼりますが、当初、ボールは硬いほうが反発力がある、というのが定説でした。ところが1970年代の中ごろに、ドン・マッキューンというPBAの選手が、ラバーボールをメチルエチルケトンという溶剤につけると、表面が非常に軟らかくなった。それを使用すると、ストライク率が高くなり、出るトーナメント、出るトーナメントで優勝をさらってしまいました。それまでの常識を覆し、ボールは軟らかいほうがピンアクションがいいんだというのを証明した、歴史の転換点でした。

各メーカーは、こぞって表面の軟らかいボールの開発に取り組み、ついにはポリエステルボールで、表面硬度が65度というボールも作られました。65度というと、ボールベースの上に載せているだけで、その跡がつくくらいの軟らかさでした。

ABC(現在のUSBC)は、どこかで歯止めをかけなければと、1978年に、表面硬度は72度以上でなければいけないという規定を作ります。ボウラーならご存知のとおり、そのルールは現在にも生きています。


著者プロフィール
日坂義人(ひさかよしひと)
1949年生まれ。東京都出身。ドリラー・インストラクター歴47年。神奈川県のスポルト八景ボウルとハマボールに店舗を持つヒサカプロショップ代表。日本オリンピック委員会強化スタッフ・JPBA理事、JBC指導委員会認証部会公認ドリラー。JPBAインストラクター委員会メンバー。インターナショナルシルバーコーチ。

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